草彅洋平「世田谷酒日記」

第十八酒 池ノ上 熊八

長年世田谷に住んでいながら大人になると知らない場所が泉のごとく湧き出てくるのがこの町の底の深さだ。それも温泉好きが高じて『作家と温泉』という本を出し、さらには「ONSEN」という飲み屋を経営していながら、淡島通りからちょっと入った路地に「淡島温泉」なる名湯が湧き出ているのを知らなかったのだから、もう自分が世田谷生まれということに自信すら持てなくなってしまうほどだ。この温泉、極上である。東京らしいまっ黒なお湯はさらりとして肌はツルツル。以前まで武蔵小山「清水湯」に頻繁に出かけていたが、最近は近場の淡島温泉に行き、飲みに出かけるコースを繰り返すようになった。

ある日いつものように淡島温泉に出かけ、番台のおばちゃんと話していると「あんたみたいに風呂入って酒飲みに行く人がいるよ」と一冊の本を紹介してくれた。それが島本慶の『東京湯巡り徘徊酒 黄昏おやじの散歩道』(講談社)。東京のナイスなお湯を浴びつつ、安い上質な居酒屋を巡りに行くというまさに僕と同じ思考回路の本である。淡島温泉も紹介されているなどコースは申し分無く、僕が本連載で紹介したお店も複数掲載されている。待機所でソファーに腰掛けながら読んでいると、東北沢の石川湯から熊八への流れが気になった。「熊八」はさまざまな友人が僕にオススメしてくれながら、まだ足を運べていなかったお店。本をパタリととじて、その夜は熊八へと出向いてみることにした。

常連で混み合う熊八のメニューを見て衝撃を受けたのが圧倒的な安さだ。イカとアジフライ350円、刺盛390円、カレイ煮360円、ちんげん菜とにんにく炒め380円など、どこで利益を上げているのか分からない価格設定はサスガとしか言いようがない。風呂上がりの一杯はカッーとアルコールが体内を駆け巡り、めっぽう美味いがドッと汗が吹き出てくる。ガヤガヤとしたバカ騒ぎを遠目で見つつ、またしても世田谷の奥深さを思い知らされた一日となった。

熊八

世田谷区北沢1-31-2
TEL:03-6325-0429
営業時間:18:00~25:30 木曜定休

 

草彅洋平(くさなぎ・ようへい)
1976年東京生まれ。(株)東京ピストル代表取締役として、プランナー、編集、執筆、ディレクションなど幅広い業務をこなす。編著に『作家と温泉』。東京ピストルでてがけた日本近代文学館内の文学カフェ「BUNDAN COFFEE& BEER」も話題に。
http://www.tokyopistol.com/